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闘病雑感

闘病雑感

2020.12.11

構医ジャーナル寄稿

闘病雑感

この度、大病を患い闘病し、無事に生還された本田一郎氏より、
闘病生活を通じて感じたことを寄稿された。



二〇一五年十二月下旬。当時五十五歳だった私は、便に血液が付着していることに気付いた。いろいろよぎったが、特に気にとめることもなかった。しかし、時が経つにつれてそれは顕著になり、血便は常態化した。「そのうち治まるかもしれない」仕事を休み、混雑しているだろう病院へ出かけることが非常におっくうに思えてならなかった私は、自分にそう言い聞かせていた。そして、痛みがなかったこともあり、症状の悪化を自覚しながら三年もの間放置し、いよいよ排便に困難を来すことが起こり始めた。さすがにこれは対策をとらなければと思い、同門の先生方にも相談した。その話は吉田勧持先生まで届き、今、身体に何が起きているかを正確に知り、きちんと向かい合うよう姿勢を正された。




二〇十九年二月。病院を訪ね、血液とCT、内視鏡検査を受けた。

「ひどい直腸癌です」

「放っておくと、どれくらい持ちますか」

「二ヶ月で破裂します」若い医師は強い語気で断言した。

画像を見ると、直腸は塞がりかけていた。長い時間経過の中で、おそらくそうだろうと思っていたため、別の医師による生命の危険の説明にも衝撃や失望はなく、冷静に話しを聞いた。元々「生」に対する執着が、他人に比べて稀薄だと感じていた私はただ「これが自分の寿命だ」という感覚で、気になったのは拝見していた患者さん方のことだった。緩和ケアは充実していると聞いており、子供も成人していたため、痛みさえ抑えてもらえればいい。このままの流れでゆこう。そう考えた。

「お帰りいただくわけにはいきません」翌日も、多くの診療の予約が入っているために帰りたいという私に、二人の医師が言う。赤血球がおよそ四十%にまで減っていたため、交差点を横断中や駅のホームで倒れたら大変だ。病態も切迫しているなどと説得され、話し合いは切りがなく、渋々緊急入院に応じた。時刻は夜の八時を過ぎていた。

「このままだと十三ヶ月くらいでしょうか」朝の回診時に言われた。まずは輸血を受けたが、多くの体験者から、抗癌剤や放射線による副作用の厳しさや術後の不調を聞いており、元々治療に消極的だった私は医師や看護師に自分の考えを伝え、終末期医療についての実情を尋ね、具体的な話をした。

相談した先生方に、病状やその後についての考えを報告したところ、前向きへと考えを改めるよう有り難い至言を頂いた。吉田先生からは「自分の命を粗末にする人間が、医療者でいることは許さない」と、温かな叱責を頂き、様々な諭旨の言葉に感慨を覚えた。自分の寿命だと納得し、流れに沿おうと考えていた私は数々の卓見に触れ、病室という非日常的空間で改めて考えを巡らせた。時間はいくらでもあった。そして、生命活動とは流れに抗うこと、という構造医学の考えの根幹のひとつを思いだし、もしも、これまで講義で授かってきたことをさらい、余命幾ばくかの癌に抗うとどうなるのだろう。そう考え始めた。抵抗して何かを示せたなら、誰かの役に立てるかもしれない。一般に、人の不調を正そうとする人間が、自分の場合には何もしないというのは確かな矛盾だ。熟思を重ね、一度癌に抗い、生きるための行動をとってみよう。そう思うに至った

予定の輸血が終わった日に、担当医に気持ちの変化を伝えたところ、内視鏡検査の画像を改めて見せられ「検討の結果、ここまでの進行度では当院での対応は厳しい病状だ。癌専門の病院を紹介したい」との話があり、転院することとなった。

その頃、吉田先生から食の養生法を授かった。構医本草。菊芋粉とごぼう粉。ケールや熊笹の抽出液。その他、状態に応じた食材を教わった。一日一食とし、二回の歩行と頻回の冷却。リダクターとアーシングの処方を合わせた養生を励行し、闘病生活が始まった。




二〇一九年四月。紹介を受けた病院で、改めて様々な検査を受けた。「どうしてこんなになるまで放っておいたのか」。三人の医師が担当してくださることになったが、異口同音だった。主治医から、癌の進行度や広範囲に及んでいることを考慮すると、難しい治療になるかもしれないと言われた。そして、今の状況では手術ができないので、まずは抗癌剤と放射線を施す。手術ができるかどうかはその後の判断になる。もしも、途中で転移が見つかれば、手術はしないかもしれないと説明を受けた。そして、鼠径リンパ節に癌は見られるが、これほど進行している巨大な癌なのに、近接する膀胱や前立腺、好発部位の肺や肝臓などに転移していないことは稀であり、幸運だと言われた。しかし、癌は手強い。どこかに潜んでいる可能性があるとも言われた。

二〇一九年五月。右の鎖骨下にCVポートを埋め込み、抗癌剤治療が始まった。白血球が半分程度になることがあり、途中何度か延期しながらの投与だった。副作用が少しずつ現われる。私の場合は足底のしびれが強くなり、手指のしびれは冷たいものはもちろん、金属の取っ手に触れただけでも電撃が走り、初夏の陽気に家の中でも手袋を必要とした。同時に五、六カ所にできる口内炎の痛みは苛立ちと心労を生む。不定期に起こる胃の差し込みは脂汗を伴う。あれは強烈だった。他にも起きた様々な苦痛に苛まれているところに、経口抗癌剤を併用すると言われた。この薬の副作用のきついことは体験者から聞いていた。副作用が上乗せされるのだ。「こんなに辛い思いをしてまで、なぜ生きなければならないのか」日毎の厳しい症状に辟易していた私は、自棄的にそう思った。「もういい」と。闘病を決めた気持ちは萎えてゆく。服用すれば、確実に苦痛がひどくなることを思うと気が塞ぎ、腰は引けていった。

そんな折、吉田先生と話をさせていただく機会があった。状況説明をすると、新たな対策を授かった。

「銅を主体とした合金を手に入れて使うように」

早速買い求め、使用した。円柱状のそれを耳介部に当てて就眠したり、板状のものを背中やお腹に当てたりした。すると、驚くことが起きた。複数の口内炎は三日も経たずに完全消失。その後、足底のしびれは軽減。手指のしびれは、氷に直接触れるとピリッとしたが、取っ手や冷水の入ったグラスには触れるようになり、胃の差し込みはなくなった。抗癌剤治療のさなかである。十日間ほどの出来事と記憶しているが、喜びよりも驚きの方が大きかった。いったい何が起きたのか。とにかく楽になった。これなら抗癌剤治療を続けられる。放射線治療も大丈夫ではないか。そう思った。経口抗癌剤は、二、三度の軽い胃痛で済み、定量を飲みきった。その後も口内炎や胃の差し込みは一度も起きず、合金を使用して二週間ほどで氷を直接触れるようになった。副作用は手指と足底の軽いしびれだけになり、抗癌剤治療は終了した。

二〇一九年十月。放射線治療が始まる。治療の度に激しい下痢が起きたが、抗癌剤の副作用に比べれば何でもない。住環境が悪く、通常の細胞でいられず、やむなく姿を移行したのであろう直腸の癌細胞たち。それをまた、こちらの都合で攻撃するのは何とも申し訳ない。なぜかそんな思いで毎回治療を受けた。養生にビタミンCの摂取を加え、下痢症状以外には何事もなく、二十八回の照射は終了した。主治医から、しばらく間を空けて、治療の結果がよければ手術は来年の二月頃になる。ただし、中には効果が現れない人もいるので、その時はまた、最良の策を考えると言われた。養生は継続した。

「癌が消えたような気がする」。二〇一九年十二月。歩行中に突如感じた。「下腹部が軽い。空洞のようにも感じる」。帰宅後、妻にそう話した。それは夜、寝床に着いても感じられた。「なくなっている」本当に元の細胞に戻ってくれたのではないか。その日から、そんな思いで過ごした。

下旬に入り、治療の成果を確認する検査があった。残念ながら感覚とは裏腹に、画像から病変は消えていなかった。しかし、それは予想よりも小さくなっており、幸い転移も見つからなかった。個体差があると聞いていた治療結果は優秀だと評価され、手術は二月に決まった。そして、年の瀬の寒冷下、手指のしびれは完全に消失した。使い続けていた合金は作用していた。

二〇二〇年二月。手術前最後の内視鏡検査があった。感じ続けていた下腹部の軽快さから期待をしていたが、画像はきれいになっていなかった。手術は無事行われ、術後の経過も良く、三月に退院した。

二〇二〇年四月。定期検診時での話に驚いた。摘出部位の病理検査の結果、なんと、そこに癌が見つからなかったというのだ。癌が消えた感覚は当たっていた。担当医らから「極めて稀」「ほぼ奇跡」などの言葉があった。そして、手術直前の内視鏡検査の画像を再び見た。初診時のそれに比べれば、黒ずんだ色はなくなっているが、緑や紫など、正常のきれいな色とはほど遠いものだった。しかし、この中に癌細胞はなかったのだ。「静止画像で何かを判断するのは大変難しい」。吉田先生の講義での言葉が思い出された。

「術前のカンファレンスで、この画像を見て癌細胞が消えていると判断する医師はいなかった」担当医のひとりが話した。そして「これが今の画像診断の限界なのです」と話し、続けて謝罪の言葉があった。別の医師は「手術をして初めてわかることです」と話し、やはり、画像が判断の基準であることと、その限界を示されたように感じた。「あの手術は要らなかったのかもしれない」少しの間、複雑な思いに包まれたが、術前のあの画像を見れば、誰でも手術を選択するのだろう。そう考えた。

鼠径リンパ節の癌細胞も、きれいに無くなっていることが確認された。そこに存在する必要がなくなったのだろう。「リンパ節にある癌細胞は、それを攻撃する細胞たちに教えるために取り込んでいるもので、そこを摘出したら、一体誰が癌細胞と闘うのか」吉田先生の講義を覚えている。それは私の体内でも起きた。

通常は行うという術後の抗癌剤治療はお断りした。話をよく聞き、熟慮した上で判断した。主治医から、元の病変の大きさから考えると、私の場合は再発のリスクが高く、しばらくは三ヶ月ごとの監視が必要とのこと。念のためにCVポートはそのままということになった。

様々な検査、手術前の治療、やっかいな手術や術後のケアには、それぞれ多くの医師、看護師、検査技師さんらに良くして頂いた。お陰様でここまでこられた。担当してくださった皆様には本当に感謝している。一方で、苦痛だった抗癌剤の副作用が軽減、消失したこと。病変の縮小や癌の消失。そして、何より転移がなかったことは、構医本草やリダクターを始めとする構造医学の養生あっての結果だと、私は感じている。これは、同一個体で追試ができなくとも、まだ先にあった漠然とした「死」が眼前に現われ、隣り合わせに過ごしてきた当の私のみが感じ得る実感だろう。生理歩行と生理冷却、構医本草やリダクターが身体に及ぼす働きは、これまで学んだつもりでいた概念を大きく超えていた。




私という個体に起きたことが、他の個体にも同様に起こるとは言えない。しかし、私という個体に起きたことが、他の個体にも起こる可能性があるという言い方は可能ではないだろうか。抗癌剤治療や放射線治療の途中で苦痛に耐えきれず、やめる患者さんが少なくないと医師らに聞いた。副作用が嫌で、初めから癌治療を拒む人もいるという。しかし、合金による抗癌剤の副作用への響きが明らかになれば、治療に二の足を踏んだり、中断したりしないですむ可能性が出てくるかもしれない。合金を使用して先に進めた私の体験は、そのあたりを示唆していないだろうか。

病院の方針もあって、術後二日目から歩き始め、退院の翌日には診療を再開できるほどの快復ぶりだった。時々足底に僅かなしびれを意識するが、心配した術後の障りはない。一度は寿命を覚悟した私は、普通に生活を送っている。ひとりを救うために、実に大勢の方々が関わり合うことに、しみじみと有難味を感じる。そうして授かったふたたびの命は、やはり、助ける側の立場として役立てたいと、思いを新たにした。

構造医学と癌専門病院に出会い、私は救われた。人生にある、幾重もの偶然がもたらす他者との出会いは、時に、その後の人生を大きく左右するのではないか。「ご縁」という不可思議に、今更ながら思量を深めた。そして、言葉では実際が伝わらない患者の苦痛の種々を体感し、いろいろ学んだ。

余命に触れられた私は構造医学に付き添われ、僅か一年余りの闘病を経て快復した。大病であったにもかかわらず、時機に応じた様々な指導に、病躯は、あたかも図られたように生還へと導かれた。

吉田先生や構造医学への私が胸に抱く恩に受ける思いは、今や有り難いという言葉では追いつかないものを感じている。

吉田先生とのご縁に、心からの感謝が止まない。

以上

二〇二〇年八月 本田一郎



寄稿者プロフィール

平成2年より医療者として歩み出し、補完医療を志した。構造医学を礎に30年目を迎え、安全と安心を心がけた診療を続けている。

 
コメント

近年のがんに対するアプローチは諸種の複合的なアプローチにより、少しずつではあるが、成果が見られつつあるようになってきたと思われる。 ここで投稿された本田氏の闘病記についてコメントしたいと思う。 巨大な腫瘍(がん)に対して、その縮小化を図るため抗腫瘍剤を先行投与し、手術可能範囲まで縮小するのを待って外科的切除に入ることがよくあるが、この際の抗がん剤(化学療法)は、諸種のタイプがあるものの基本的に抗腫瘍作用を導き出すために、フリーラジカルを活用することが多く、この際、副反応として特に消化器官を中心とした耐えがたい苦痛や多発性潰瘍などの影響が出ることはよく見られることである。 このような副反応は闘病の気概を折り、化学療法の継続を困難とする場合が少なくなく、そのために十分な化学療法が施行できず、中断せざるを得ないことが多くあったことは既に知られている。 この対策として、フリーラジカルの消去のための抗酸化物質等の投与は、化学療法の効果を希釈し十分な化学療法の成果を見ることができないため、一般的には使用されない。 今回、本田氏の場合、重大な副反応が起こり、本来であれば化学療法を中止しなければならない状況であったが、本文中にあるように銅複合合金により、フリーラジカルの局所的消失を図り、化学療法の効果を毀損することなく継続し、十分な効果を発揮することができたことは幸いであった。 今回、銅複合合金を用いるにあたり意図した作用は、このようなフリーラジカルの消去作用であるが、まさに実証されたものである。 本年学会では、同複合合金の演繹推論的な作用機序について十分な効果を見ることのできる一助が示されたものと感じている。 本来、補完医療は現代医療との敵対位置関係にあるのではなく、共存的位置関係において補完する意味をもって機能することが最も望まれるものと信じている。

構医研究機構最高顧問 吉田勧持